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京都高低差崖会

京都高低差崖会は京都の凸凹地形を探索しています。平地ではいられなかった、高低差が生まれてしまった、京都ならではの「まちの物語」「土地の記憶」を読み解いていきます!

聚楽第を探し歩く01:まずは地図から読み解こう

京都市上京区 聚楽第シリーズ 洛中絵図 カシミール3D

@chang_umeです。今回からは「みんなだいすき聚楽第」に関連しそうな高低差について探索したいと思います。

聚楽第はシリーズ化を予定していまして、今回は地図上の平面で把握する内容で次回以降、実際に現地で聚楽第の遺構を確認する内容です。

シリーズのうち、どちらからでも読んでいただいて結構ですが、「地図が好きだ!好きなんだ!」という方は、ぜひ今回の記事からじっくりご覧いただけたらうれしいです。

早速だけど、聚楽第って何?

聚楽第とは、豊臣秀吉が政権の政庁として京都の中心地(かつての平安宮の区画内、現在の京都市上京区)に築いた城郭です。天守と御殿群、さらには高石垣と広大な堀を備えた本格的な城でしたが、天正15年(1587)に完成後、秀吉甥の秀次失脚(秀次事件)に伴い文禄4年(1595)に廃城となり破却されました。10年に満たない期間で廃城となったため、「まぼろしの城」として知名度も高いようです。

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●図:「聚楽第図屏風】部分(三井記念美術館蔵)

聚楽第は、天正14年(1586)豊臣秀吉が平安宮内裏の跡地に築かせた城郭です。後陽成天皇行幸を迎え、諸大名に天皇天皇の代理である関白秀吉に忠誠を誓わるという一大イベントが行われた舞台となりました。甥の秀次に関白を譲ってからは秀次の居城となりましたが、文禄4年(1595)の豊臣秀次の失脚後、秀吉の命により破却されました。9年間という短い期間でしたが、京都における豊臣政権の中心として存在しました。聚楽第を歩く1(平安京探偵団)

カシミール3D聚楽第を見たら

ふと思い立って、最新の調査報告書(2012年度)*1に記載された聚楽第復元案をトレースの上、現代の地図に重ねてみました。またそこからさらに、「カシミール3D」地形図にも配置してみました。

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●図:現代の地図に聚楽第を重ねた

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●図:カシミール3D地形図に聚楽第を配置

重ね合わせるとよく分かるのですが、聚楽第周辺は「高低差」(崖・凹凸地形)だらけです。しかも市街地のなかにひっそり潜む存在感というか、まさに「微地形」といった規模の高低差が集まっていそうです。

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●図:聚楽第の周辺は「崖」だらけ

そして地形図上の「高低差」「崖」は、聚楽第復元図と位置がうまく対応しそうな印象です。地図を見ているうちに、それぞれが聚楽第の「遺構」あるいは何か特別な事情が作用した結果ではないかと思い始めました。京都のまちなかの平坦部に集まる凸凹の微地形。何かありそうですね。ワケありの香りがします。

  • 聚楽第周辺の現地形は、「高低差」「崖」「凹地」が集まっている。
  • それぞれの微地形は、聚楽第復元図と対応しそうな印象。
  • 平坦部に現れる凸凹地形には要注意。
  • これは現地で確認しないと。

というわけで、地図でつぶさに調べたうえで現地で確認を行いました。興味深い発見がいくつもありましたので、この機会に皆さんへご報告したいと思います。

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●参考図:聚楽第平安京・二条城の位置関係
聚楽第の本丸北端が「一条大路」とピタリと一致しています。また東端も「大宮大路」に一致するように対応しています。聚楽第の占地にあたっては平安京の旧条坊を基準として、本丸が「平安宮」の北東隅に収まるように意識されたのでしょうか。

「洛中絵図」で準備

聚楽第の「遺構」を歩く前に、さらに地図を追加します。聚楽第があった安土桃山時代(豊臣期)から現代に至る途中経過を知りたいのです。そこで江戸前期の「洛中絵図」を参考にしたいと思います。

「洛中絵図」とは寛永14年(1637)に成立した京都の地図で、中井家江戸幕府に提出した測量図です。聚楽第の廃城(文禄4年・1595)から約40年後の京都のまちを正確に映し出していて、今回のような探索では大変参考になる資料です。

まずは、「洛中絵図」に、かつてあった聚楽第を重ね合わせてみました。ただし「洛中絵図」は、元々無地の図面であるためあっさりしています。おおよその様子はうかがえますが、まだちょっと分かりにくいですね。

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●図:「洛中絵図」に聚楽第を重ね合わせ

つぎに、「洛中絵図」を寛永14年(1637)当時の土地利用に応じて着色してみました。武家地をオレンジ、寺社地を紫色、公家地を黄色、そして畠や野原・藪を緑色に配色しています。

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●図:着色した「洛中絵図」と聚楽第

最後に、着色した「洛中絵図」にラベルを貼っていきましょう。いわば「発見の補助線」の追加作業です。地図は昔々から「記号の集合」なので、三次元の情報を平面の二次元に落とし込みながら、上手に記号化していく作業が重要です。今回は「洛中絵図」で記号化を試みました。

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●図:着色した「洛中絵図」にラベルを貼る

ラベルを貼ると抜群に分かりやすくなりました。江戸前期の京都が生き生きと蘇ったようです。こうしてみると聚楽第の広大な敷地は、すでに江戸前期(寛永年間)でも市街地化が進んでいた様子が見て取れます。さらにまた、南北方向に「智恵光院通」、東西方向に「中立売通」がかつての聚楽第を貫通していて、聚楽第が市街地される際に智恵光院通中立売通が主人公だった経緯もうかがえます。

一方で、西側(地図左側)に広がる「畠」「野畠」が、聚楽第があった敷地のすぐ際まで迫っていることも分かります。よく見ると聚楽第の「外郭南堀」の跡地に、市街地に囲まれながら「野畠」がグリーンベルトのように存在している様子も興味深いです。

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●図:「外郭南堀」があった地点に帯状の「野畠」-「洛中絵図」より

ここでいったん整理しましょう。

  • 聚楽第の遺構を、現代の地形図からも確認できる。
  • 聚楽第周辺は、「崖」「凹地」といった微地形(高低差)が集中している。
  • 江戸前期には、すでに市街地化が進行していた。
  • 市街地のなかで、堀跡が帯状のグリーンベルトになっていた。
  • 地図制作はたのしい。

記事が長くなってきたので、今回はこのへんで。
次回以降、いよいよ現地で遺構確認編となります。

今回の「聚楽第シリーズ」では現代の「カシミール3D地形図」に加えて、江戸前期の「洛中絵図」も参考にしながら聚楽第の遺構を探したいと思います。現代の市街地に潜む高低差が、どんな歴史的な経緯をたどって今ある姿になっているか、とても興味が湧くところです。(以下PART2に続く)

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