京都高低差崖会

京都高低差崖会は京都の凸凹地形を探索しています。平地ではいられなかった、高低差が生まれてしまった、京都ならではの「まちの物語」「土地の記憶」を読み解いていきます!

聚楽第を探し歩く04(完):京都にとって「聚楽第」はどんな場だったのか?

@chang_umeです。今回で聚楽第シリーズもいったん一区切りです。現在も地表の高低差・凹地で残る聚楽第の「遺構」として最も有名な地点をご紹介しながら、聚楽第廃城から現在に至るまでの約400年以上もなぜ「遺構」が残り続けたか、そのあたりを考えてみたいと思います。

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聚楽第シリーズ」(第1回~3回)のおさらいもしましょう。これまで聚楽第の「遺構」とされる高低差・凹地をご案内してきました。京都市北部の「西陣」と呼ばれるエリアは、高低差・窪地のような微地形が意外と集まっています。

聚楽第最大級の「遺構」: 松林寺境内

北・出水通~南・下立売通、東・智恵光院通~西・千本通にはさまれた横長長方形の形をしたエリアは、京都のまちなかにしては非常に珍しく巨大な凹地となっています。地形図ソフトの「カシミール3D」で見ると一目瞭然、そのエリアだけ一帯が沈んだように凹んでいます。なかなか興味深い地形ですね。

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●図:京都まちなかの巨大凹地

このまちなかの巨大バスタブ状の地形は、以前から聚楽第の「遺構」(外郭南堀)とされてきました。とくにこの凹地の中に所在する松林寺は、表門から境内に向かって傾斜する坂道が生じていてご存じの方も多いと思います。

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●写真:松林寺表門から境内への高低差

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●図:聚楽第復元図と松林寺位置を重ね合わせ

松林寺周辺は、境内外側(北側)の出水通からすでに傾斜が始まっていて、ちょうど「谷底」の位置に松林寺があるような地形です。

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●写真:出水通から松林寺に向かって下り坂となっています

松林寺境内に入ると、境内がまるで「谷底」に位置するように感じられます。バスタブ状の巨大凹地のまさしく「底」に境内は位置しているのです。聚楽第「外郭南堀」の遺構と言われても、じゅうぶんに納得感のある景色といえるでしょう。

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●写真:松林寺境内から見ると境内の外は高台のようです
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●写真:境内の最も低い地点は墓地となっています

調査結果から

今に残る松林寺一帯の巨大な凹地は、比較的古い時期から聚楽第の遺構と比定されてきました。大正8年(1919)に編纂された『京都府史蹟勝地調査会報告』では、松林寺周辺には「濠池」があって聚楽第の遺構としています。

土屋町付近に古くより住する人々は今より約20年前に於いては土屋町通下立売北辺に於いては尚幅数間の濠池ありて、夏日児童の游浴するものありたりしことを記憶するもの多し。
西田直二郎・梅原末治 1919 「聚楽第遺址」『京都府史蹟勝地調査会報告』第1冊

「児童の游浴するものあり」とあるぐらいなので、水溜りというよりもしっかりした「池」がかつてこの付近にあった模様です。また肝心の調査結果ですが、1997年の発掘調査で堀としての遺構も検出されたとのことです。

松林寺境内南の地面は新出水通より低く,寺の門から本堂裏にかけてさらにくぼんだ部分があり,聚楽第外郭の東西方向の堀にあたると考えられてきました。平成9(1997)年の発掘調査から部分的な外堀の一郭であったと見られています。
都市史18 聚楽第と御土居(京都市歴史資料館「フィールド・ミュージアム京都」

このように松林寺一帯の巨大な凹地は、旧地形からもそして調査結果からも聚楽第の「堀遺構」(外郭南堀)と見て良さそうです。

聚楽第と私たちをつなぐ「中間」

いっぽうで、なぜこの地点が聚楽第廃城から400年後も明確な形の「遺構」を残し続けてきたのか。そんな疑問が浮かびます。

つまり松林寺一帯の巨大な凹地について、私たちが今も目にすることができる地形は聚楽第そのままの姿ではありません。廃城後400年以上も経過した姿が、今の地形です。丁寧に考えれば、この巨大な凹地は聚楽第を地形が生まれた出発点として捉えることができても、廃城後の期間の方がはるかに長いという事実があります。

聚楽第の存続期間は天正15年(1587)~文禄4年(1595)のわずか8年間ですが、廃城後の期間は今(2014年)に至る約420年間となっています。聚楽第は廃城後の期間の方が圧倒的に長期であるわけですね。

したがって正確を期するならば、松林寺一帯の今の巨大な凹地は、廃城後の約400年の期間で「色々あった」末の姿となります。今回はこの「色々あって今の姿がある」という視点を大切にしつつ、聚楽第存続期と現在をつなぐ「中間」の期間・出来事について説明を試みたいと思います。

「その後」の聚楽第

ここで廃城後の聚楽第がどんな姿となっていったのか、経過を見ていきましょう。「聚楽第跡地」はまず「芸能興行の場」として、つぎに「農地」「ゴミ捨て場」「空地」として記録に登場しました。

はじめは「芸能興行の場」として

聚楽第が「跡地」として史料に初めて登場した姿は、まず「芸能興行」の場としてでした。当時の記録では、聚楽第の跡地で興行された「歌舞伎」や「能」が語られています。

聚楽第跡地での芸能興行
時期 内容 出典
慶長5年(1600)4月 勧進能 梵舜記*1
慶長13年(1608)5月 歌舞伎 当代記*2
慶長15年(1610)3月 金春太夫勧進能 梵舜記

また、豊臣家滅亡前の京都の姿(慶長年間)を描き出した「洛中洛外図屏風」にも、聚楽第跡地で芸能が興行されている情景がはっきりと描かれていました。

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●図:「洛中洛外図屏風」(個人蔵)に描かれた聚楽第跡地
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●図:「洛中洛外図屏風」(上図)をクローズアップ

注目すべきは、聚楽第が「徹底的に破壊」されたと現在広く認識されている一方で、同時代の絵画資料には「石垣」や「水掘」が明確に描かれていることです。この「洛中洛外図屏風」を見る限り、文禄4年(1595)の廃城後から約20年後(慶長年間)も天守や御殿といった建築物は撤去されたものの、「石垣」「水堀」といった不動産は現地に残り続けていたと判断可能です。

この「洛中洛外図屏風」は左右方向に南北軸があるため、素直に屏風の描写を解釈すれば「遺構」が描かれた範囲は聚楽第の主郭部北側の一帯となり、屏風に描かれた聚楽第跡地はかつての「北之丸」「本丸」の周辺とも推定できます。

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●図:「洛中洛外図屏風」に描かれた聚楽第跡地の位置関係

さらに別の資料として、文禄4年(1595)の廃城後、約30年が経過した寛永初年頃(1624頃)に成立した「京都図屏風」にも、聚楽第の主郭部は不動産部分がほとんど残されていた様子が描かれています。

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●図:「京都図屏風」に描かれた聚楽第跡地

聚楽第が廃城時に「徹底的に破壊」されたという私たちの「常識」は、どうやら実情とは少し異なるようです。不動産部分(石垣・堀)が長期にわたって残されたうえに、「芸能興行の場」だった聚楽第跡地の姿が浮かび上がってきました。

ここで注意が必要な事柄として、当時の「芸能興行の場」は市街地の中心部ではなく「周縁」で行われていたということです。聚楽第跡地から見て、当時の京都市街地をはさんだ反対側は「鴨河原」(四条河原・五条河原)です。そこでも同様に、さまざまな芸能(阿国歌舞伎など)が盛んに催されていたことは、皆さんの多くもご存知かと思います。

  • 聚楽第廃城(文禄4年・1595)の後、かなりの期間にわたって不動産部分(石垣・堀)が現地に残されていた。
  • 豊臣家滅亡前の資料(日記史料・絵画資料)には、聚楽第跡地が「芸能興行の場」だった様子が記されている。
  • 「芸能興行の場」だった聚楽第跡地は、京都の市街地中心部から見て「周縁」としての場所の意味をもっていた。

つぎに「農地」として

「石垣」や「堀」が残されたうえに「芸能興行の場」として成立していた聚楽第跡地ですが、その後はまた異なった姿に変化していきます。江戸前期の寛永14年(1637)に成立した「洛中絵図」を見ると、以前の「芸能興行の場」とは一転してのどかな「郊外」の風景が拡がっていました。

当時の状況について、「洛中絵図」を土地活用の内容に応じて着色改変した図から見てみましょう。

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●図:「洛中絵図」(着色改変)の聚楽第跡地

先ほどの「洛中洛外図屏風」や「京都図屏風」に描かれた聚楽第跡地の石垣や堀といった遺構は、「洛中絵図」には全く描かれていません。これから判断する限り、「京都図屏風」が描かれた寛永初年(1624年頃)から「洛中絵図」が描かれた寛永14年(1637)までの13年間の期間で、聚楽第は市街地化・再開発が進んだようですね。

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●図:「洛中絵図」(着色改変)に聚楽第復元図を重ね合わせ

「芸能興行の場」だったと推定されるかつての「本丸」や「北之丸」の一帯は、完全に市街地として町家化されています。またかつての「外郭」の西半分は、「野畠」として農地化あるいは空地になっていました。

さらに今回ご紹介した松林寺周辺を、「洛中絵図」からクローズアップしてみましょう。

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●図:「洛中絵図」から現在の松林寺周辺をクローズアップ

松林寺はもともと別の場所にありましたが、元禄年間(1688~1704)に現在地へ移転してきました。したがって、「洛中絵図」が成立した寛永14年(1637)には隣接する「昌福寺」のみが描かれています。

「洛中絵図」を見ると、現在の松林寺一帯が東西方向に横長の「野畠」となっていた様子が分かります。ちょうど聚楽第のかつての「外郭南堀」の位置と対応するかのようです。

また「カシミール3D地形図」と見比べると、松林寺境内を含む現在の「巨大な凹地」がちょうど「洛中絵図」に描かれた「野畠」に対応することもよく分かりました。ただし、現在の「巨大な凹地」は聚楽第の「外郭南堀」の範囲よりも若干規模が大きく、むしろ「洛中絵図」の「野畠」の規模にぴったりと当てはまる印象ですね。

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●図:松林寺一帯の「巨大な凹地」(カシミール3D

もしかしたら、今の私たちが目にする松林寺一帯の「凹地」状の地形は、発端を聚楽第としつつ、直接のつながりは「洛中絵図」に描かれた「野畠」なのかもしれません。もちろんこの「野畠」が、元々は聚楽第の「堀」だった凹地を利用して作られた可能性は極めて高いです。

たとえば、有名な京野菜のひとつである「堀川ごぼう」は、またの名を「聚楽ごぼう」といって聚楽第の「堀跡」で栽培されたことを起源としているようです。

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写真:堀川ごぼう(聚楽ごぼう)

京都市:堀川ごぼう
豊臣秀吉が築いた聚楽第の堀跡へ埋めたゴミの中に,食べ残しのごぼうが捨てられていたものが年越して大きく育ったことから年越ごぼうの栽培が始められたと言われており ...

そして「空地」「ゴミ捨て場」として

さらに「洛中絵図」から時代が下って、江戸中期初頭の享保2年頃(1717)に成立した「京都御役所向大概覚書(きょうとおやくしょむきたいがいおぼえがき)」を見てみましょう。

「京都御役所向大概覚書」とは京都町奉行所によって編纂された書物で、奉行所の勤務手引書とも呼べるような詳細な記録です。そのなかに「聚楽第跡地」について記載が2箇所ありました。当時の京都にあった、「空地」(明地)と「ゴミ捨て場」(塵捨場)の一覧です。

近世京都の「空地」一覧*3
場所 面積
聚楽内野割余り空地七ヶ所 10,048坪
同土取場跡 1,818坪
鷹峯御薬園明地 5,600坪
横大路金丸又左衛門上ヶ屋敷跡明地 2,192坪
寺町裏通御所役人三上左衛門尉屋敷東北江折廻シ空地 550坪
寺町裏下御霊北地続明地 380坪
土手町跡近衛殿屋舗南隣 300坪
東山真如堂門前四ヶ寺後空地 300坪
荒神町寺町東江入北側明地 250坪
寺町通竹屋町下ル町大和局上ヶ地跡明地 108坪
東山真如堂後黒谷境長刀坂之上之有空地 56坪
寺町裏長崎伊予守組屋敷前明地 50坪

近世京都の「ゴミ捨て場」一覧*4
No. 場所
1 室町頭小山口明地
2 今出川口川東長徳寺北川端
3 二條口河原頂妙寺北川端
4 七條出屋敷木津屋橋東少將藪之内
5 所木津屋橋西祐天寺藪之内
6 三條通西土手東際
7 楽天秤堀之西新町之東裏

「空地」(明地)の一覧のなかでは、聚楽第跡地の面積が圧倒的です。他の空地の面積を全て足しても(9,786坪)、聚楽第跡地の空地(11,866坪)には及ぼないほどです。聚楽第跡地がいかに広大な「空地」として広がっていたか、一目瞭然の記録ですね。

また当時の京都市行政(京都町奉行所)認定の「ゴミ捨て場」(塵捨場)7箇所のなかに、聚楽第跡地が含まれていることも目を惹きます。

  • 江戸前期の「洛中絵図」では、聚楽第跡地は主郭部が「市街地」として、外郭部が「野畠」として再開発されていた。
  • 江戸中期の「京都御役所向大概覚書」によれば、聚楽第跡地には広大な「空地」が広がり、「ゴミ捨て場」としても利用されていた。

聚楽第跡地は「郊外」だった!?

このように近世京都での聚楽第跡地は、「芸能興行の場」から「市街地」「農地」「空地」「ゴミ捨て場」へと変遷していきました。

その姿を当時の京都人の目で見れば、市街地が途切れて「農地」「空地」と「ゴミ捨て場」が広がる風景、まさしく「郊外」の風景と映ったことでしょう。京都の中心(市街地)から周縁(郊外)に移り変わる地点が、聚楽第跡地だったといえそうです。

聚楽第といえば「絢爛豪華な豊臣政権の政庁」という、いかにも京都の在りし日の中心としてのイメージが湧きますが、「その後」の聚楽第に視点を移せばむしろ都市中心から離れた「郊外」としての風景が浮かび上がります。少々意外な気もしますね。

聚楽第の「近代」

「郊外」としての聚楽第跡地は、近代(明治~大正)に入っても変わらぬ風景だったようです。当時を記憶してる人の言葉からも、近世と同様に「空地」や「畠」が広がる「郊外」の風景が浮かび上がってきます。

現在ではこの区内は空き地のないところで、隅々までギッシリ家が建てつまっています。しかし明治時代には、家の数もまばらで、かなり空き地がつづいていました
(中略)中立売から北のあたりも、家はまばらに建っていて、広い竹藪があったり、畠があったり、荒れ地も拡がっていました。夜になると、明かりも乏しいので、いたって淋しい物騒なところだったのです。


『聚楽小学校創立90年記念誌』

『出水校百年史』なんかによりますと、新出水の辺には、桃畑や杏畑、大きな池もあった、とありますが、そんなん、覚えてはりますか。


新出水に、つい、先だってまであった西陣劇場。あれは、を埋め立てて建てたんやと聞いてます。中川さんに聞きましたんやが、出水校の校庭から丸太町通が見えたそうで、結構空き地があったようですね


下立売の家の前から御所の灯が見えた、とも聞いてます。うちの庭に100年とも200年とも言われる杏の古木が1本ありますが、それが、杏畑のなごりの木らしいですわ。新出水通は、うちのじいさんのときに畑の中に通した道や、とも聞いてますしな。


出水のあたりが大きく変わったのは、明治の終わりから、大正の初め頃にかけてで、お2人がお生まれになるちょっと前になるんですね。私らの住んでいる主税町界隈は、所司代から刑務所、そのあと博覧会場を経てできた、いわば、上京での新開地NHKが昭和7年。二条公園が、私と同じ9年にできてます。一番、変わった所といえば、このあたりかもしれませんなあ。


上京区120周年記念誌』*5

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●「空地」「農地」が混じる明治末年の聚楽第跡地-「京都市実地測量地図」(明治42年・1909)を着色

聚楽第の「遺構」は、なぜ残り続けたのか?

ここで最初の問いに戻りましょう。「聚楽第廃城から現在に至るまでの約400年以上もなぜ”遺構”が残り続けたか」との問いであり、聚楽第廃城後の400年以上もの間に「色々あって今の姿がある」の中身です。

  1. どうして聚楽第の遺構は完全に破壊されずに、今も「高低差」や「凹地」として残り続けているのだろうか?
  2. どのように聚楽第の遺構は残り続けたのだろうか?


その答えはおそらく、京都が聚楽第跡地を「必要」としたからではないでしょうか。

つまりこれまで見てきたように、堀跡といった凹地としての聚楽第遺構が、再開発の需要(農地・ゴミ捨て場)を満たすものであったということです。そしてそれは、「郊外」としての聚楽第跡地の再生につながるものだったはず。市街地が途切れて、広大な「農地」「空地」そして「ゴミ捨て場」が広がる聚楽第跡地は、京都の都市住民に重要な役割を「郊外」として果たしていたと考えたいです。

今回ご紹介した松林寺一帯の「巨大な凹地」は、近代まで「池」「農地」として姿を留めていました。さらに現代に至っても、現地では高低差をはっきり体感できる規模を留めています。

京都という大都市が「聚楽第跡地」を必要とした。だからこそ、高低差が高低差のままでいられたともいえそうです。

聚楽第というトポス

今回の記事で検討したように、聚楽第廃城後の約400年は後日譚では決してありません。むしろ「聚楽第跡地」が京都のなかで積極的な価値、つまり「郊外」としての価値を場所性(トポス)として備えていった経緯がたしかにあったのではないでしょうか。

つまり、松林寺一帯の巨大な凹地に代表されるような聚楽第遺構に由来する地形は、近世・近代を経て現代まで「郊外」という場所性のなかで残るべくして残ったと。こんな風に考えられそうです。

聚楽第遺構が残り続けた理由を考えることは即ち、聚楽第といういかにも「中心」の意味合いを有する場所が実は「周縁性」を備えている発見につながるものです。同時に、私たちが漠然と抱いている京都の「中心」あるいは「周縁」のイメージについて、書き換えを迫るような驚きともいえましょうか。

今回の記事では聚楽第「遺構」を通じて、高低差・凹地といった微地形から近世~近代の京都のまちを眺めてみました。若干、大風呂敷を広げてしまったような気もしていますが、聚楽第跡地が備えていた「場所性」について視点が定まれば幸いと思っています。さらに、聚楽第跡地一帯に点在する他の高低差ポイントも気になるところですが、それは今後のフィールドワークや散歩の宿題としましょう。

ではでは。
高低差が高低差であり続けた理由を。(梅)

*1:京都豊国神社社僧・神龍院梵舜の日記史料。天正11年(1583)から寛永9年(1632)まで記録されています。

*2:寛永年間(1624年~1644年)に成立した記録史料。著者は松平忠明徳川家康の外孫)ともいわれるが不明。天文年間(1532年~1555年)から記述が始まり、江戸初期までのさまざまな出来事が記録されています。

*3:「所々明地之事」『京都御役所向大概覚書』(三)より作表

*4:「洛中塵捨場之事」『京都御役所向大概覚書』(ニ)より作表

*5:京都市上京区役所:学区案内/出水学区(でみず)より抜粋

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