京都高低差崖会

京都高低差崖会は京都の凸凹地形を探索しています。平地ではいられなかった、高低差が生まれてしまった、京都ならではの「まちの物語」「土地の記憶」を読み解いていきます!

聚楽第を探し歩く03:「謎の高低差」とコミュニケーションする!?

@chang_umeです。前々回・前回と、現代の地図・地形図と近世の古地図を重ね合わせながら、聚楽第周辺の微地形(崖・凹地)を探索しました。みんなだいすき聚楽第シリーズも今回で第3弾ということで、引き続き、まちなかの「」の奇妙な存在感を味わいつつ、高低差が生まれた背景について考えたいと思っています。

京都市上京区の「西陣」と呼ばれるエリアのなかに、今回ご紹介の「」は忽然と姿を現します。一般的には聚楽第の「堀遺構」と見られているのですが、果たしてどうなのか。現地で確認しながら、地図からも検討していきましょう。

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●写真:今回ご紹介の「崖」は不思議な高低差

西陣は意外と高低差が多い

京都市の北部、「西陣」と呼ばれるエリアは西陣織などの伝統産業が昔から盛んで、今も古い町家が集まっています。一見すると平坦なエリアですが、現地を注意深く歩くと意外と凸凹地形が集まっていることが分かります。

元々このエリアが北から南へと傾斜している上に、平安京(平安宮)や聚楽第のような造営事業によって「ひな壇」状の大規模な地形改変が行われた結果でしょうか。

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●図:西陣の「崖」(カシミール3D地形図)

今回「聚楽第シリーズ」第3弾は、そんな西陣の高低差のうちで一箇所を取り上げて聚楽第との関連を検討したいと思います。

まちなかの崖:聚楽第の堀跡?

土屋町通中立売通との交差点から少し南に歩いた地点(土屋町通中立売下ル)に、今回取り上げる「崖」があります。周囲の落ち着いたまちなみのなかで、明らかに異質な空気を漂わせる高低差となってます。

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●写真:唐突に現れる高低差(土屋町通中立売下ル)

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●写真:傾斜もかなり強い高低差です


●地図:高低差の地点を確認

この高低差は高さ3mほどで現地で確認すると、道路の両側に長さ約300mも続いていてかなり立派な「」となっています。まちなかの「崖」はいかにも不思議というか、不自然な印象を与えますね。きっとそこには、「平地ではいられない何か」「土地の記憶」のような特別な事情が潜んでいそうです。

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●写真:高低差は横に連なって「崖」となっています

「崖」の背景は?

いったいこの「崖」は、どんな背景で生まれたのでしょうか。

一般的には、聚楽第の「堀遺構」と認識されていて、京都市発行のパンフレット(「聚楽第」京都市歴史散策マップ20)にも聚楽第関連として紹介されています。

一方で、聚楽第復元図と現代の地図を重ね合わせてみると、この地点は今のところ「堀」とは推定されていないようです*1。すぐ近くで試掘調査が以前実施された結果*2、後世の堆積土が隣接する地点に比べると深い位置まで達していたことが判明しました。

あるいは、その調査結果が「堀遺構」の傍証でしょうか。つまり旧地形が、隣接の地点と高低差を有する「凹地」だったかもしれないということです。

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●図:高低差ポイントと聚楽第との位置関係

  • 西陣京都市上京区)のまちなかに、忽然と高低差が現れる
  • その高低差は高さ3m・長さ300mもあって特別な事情がありそうだ
  • 一般的には、聚楽第の「堀遺構」と見られている

どうやら今回ご紹介した「崖」を聚楽第の遺構とすぐに決めてしまう前に、もう少し検討を深める必要がありそうです。そこで周囲に視野を広げて考えたいと思います。手がかりは「古地図」です。「聚楽第シリーズ」でこれまで使用してきた「洛中絵図」をもとに検討しましょう。

「洛中絵図」で見比べてみよう

寛永14年(1637)に江戸幕府に提出された「洛中絵図」は、聚楽第が廃城となって約40年後の京都の姿を精密に描き出しています。今回の「崖」について、「洛中絵図」と現代の地図を重ね合わせながら検討を進めることにします。

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●図:「洛中絵図」に聚楽第を重ね合わせ

地図を重ね合わせる

まずは現代の地図に、改めて聚楽第復元図を重ね合わせてみます。すると今回の「崖」地点が、聚楽第の中心部からやや外れて外郭付近に位置していることがよく分かります。

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●図:現代地図に聚楽第復元図を重ね合わせる

つぎに聚楽第周辺で、今でも「崖」のような高低差を確認できる地点をマッピングします。地図上の「青い三角形」が現状の高低差ポイントです。おそらく聚楽第の遺構に限らず、さまざまな事情で生じた高低差が含まれていると思います。

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●図:現代地図+聚楽第復元図に高低差ポイントをマッピングする

そしてまた別に、聚楽第復元図を重ね合わせた現代地図に、「洛中絵図」から読み取れる土地利用の内容に応じた色分けをさらに重ねてみます。

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●図:現代地図+聚楽第復元図に、「洛中絵図」の情報を重ねる

こうして見ると、かつて聚楽第があったエリア付近が、江戸前期の時点(寛永年間)で「畠」「野畠」の広い緑地帯・空閑地だったことが分かります。聚楽第廃城後、かつての城郭中心部は市街地として、さらに主に西側を中心とする外郭部は畑などの緑地帯・空閑地が広がる「郊外」として、再開発が進んだ様子をうかがえますね。

最後に「洛中絵図」の情報を重ねた地図上に、先ほどマッピングした現状の「高低差ポイント」を改めて重ねてみました。

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●図:現代地図+聚楽第復元図+「洛中絵図」情報に「高低差ポイント」を重ねる

これで現代の地図上に、聚楽第と廃城後(江戸前期・寛永年間)の土地利用、そして現状の高低差ポイントとの位置関係が分かりやすくなったと思います。

  • 聚楽第廃城後の土地利用を、「洛中絵図」から読み取った。
  • 聚楽第廃城後、城郭の中心部は「市街地化」している。
  • 同様に、外郭部は「緑地帯・空閑地」として利用されている。

地図から読み取れること

作成した地図を改めて眺めてみると、現状の高低差ポイントが大部分、江戸前期の緑地帯・空閑地の「外側」もしくは「市街地との境界線」に位置することが見て取れます。唯一例外的に、今回ご紹介した「土屋町通中立売下ル」の地点が、緑地帯・空閑地の「内側」、もっといえば「緑地帯・空閑地のど真ん中」に位置していました。

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●図:緑地帯・空閑地の中に位置する今回の高低差-「洛中絵図」を元に

位置関係から見ると、今回の高低差ポイントをそのまま聚楽第の「堀遺構」としてよいか、やや違和感を抱くところです。

もちろん今回検討したような形で、「分布のあり方」のみから考えを進めることは危険を伴います。新しい発見が生まれたら、すぐに結論が変わってしまう怖さです。ですから今回の検討をもとに、「土屋町通中立売下ル」の高低差ポイントがすなわち「聚楽第堀遺構ではない」とは言い難いものがあります。せいぜい、「断言はできない」と述べる程度の違和感・疑問と受け取って頂けたらうれしいです。

今回の違和感・疑問の答えに対しては、今後の正式な調査を待ってから検討を深めていくことが一番でしょうか。ただ、京都のまちなかに忽然と現れる高低差にはきっと、「平地ではいられなかった」何か特別な事情があるにちがいありません。それだけは確かといえそうです。

  • 土屋町通中立売下ル」の高低差ポイントは、一般的に聚楽第の「堀遺構」と見られている
  • ただし正式な調査は未実施なため、確定的ではない
  • 江戸前期の土地利用を踏まえた場合、他地点に比べると今回の高低差ポイントは例外的だ

地形は変えられない:土地の記憶

地形は変えられない。変えても土地が覚えてる」とはタモリさんの名言です*3。今回のケースは、まさしくその言葉通りと思いました。

高低差を生み出した経緯がかつて確かに存在して、そこにはきっと何か特別な事情が作用したに違いない。でもその事情を、私たちは「忘れている」「覚えていない」。しかし高低差が確かに存在することで、「土地の記憶」自体は消え去っていない。このような形で「地形とヒトのコミュニケーション」が成立することもあるのではと、ふと心に感じた次第です。

次回で聚楽第シリーズはいったん最終回です。また別の高低差ポイントをご紹介しながら、今回少し検討してみた聚楽第の廃城後の土地利用についてふれたいと思っています。どうぞお楽しみに。

地形と語りましょう。
ではでは。(梅)

*1:ただし、聚楽第復元図に記載された曲輪や堀などの城郭施設の配置は、あくまで現状の調査結果を踏まえた途中経過的な内容であるため、今後の調査進展によって随時情報が更新されると思います

*2:京都市文化市民局編 2006『京都市内遺跡試掘概報 平成17年度』

*3:NHK番組「ブラタモリ」より

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