京都高低差崖会

京都高低差崖会は京都の凸凹地形を探索しています。平地ではいられなかった、高低差が生まれてしまった、京都ならではの「まちの物語」「土地の記憶」を読み解いていきます!

2019年もNHKブラタモリは京都で!:7/13(土)「京都・西陣編」に出演しました

梅林@chang_umeです。本日放映のNHKブラタモリ。「京都・西陣~織物の町・西陣はどうできた?~」はいかがでしたか。

今回僕の立場からは、西陣を〈伝統〉のイメージで発信しがちな傾向に対して、新たな時代・近世に勃興した「ニュータウン」としての地域形成史を語りました。

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タモリさんと「礎石」を愛でるひととき(「小川」旧河道の百々橋跡にて)

出演後の今の気持ち

「京都は昔から~」「ずっと変わらぬ~」「平安京以来の~」といったファンタジーあふれる観光言説、もっといえば本質主義的な言葉に対して、いかにリアリティを再び積み上げていくか。

「歴史都市」京都を語る言葉は、じつは案外「非歴史的」あるいは「超歴史的」な中身となってしまいました。地域の生活史を語る言葉が、今の京都だからこそ求められている気がしませんか。

そしてブラタモリという番組の価値は、観光やマーケットに消費・搾取されない京都像の発信にあるのかなとも感じるところです。

ブラタモリをご覧のみなさん。歩き方自体に興味が湧くような、そんな日々を一緒に過ごしましょう!

フロンティアとしての「西陣」を発見する

今回特集した「西陣」地域。番組でお伝えしたように、地域形成は応仁・文明の乱よりもさらに後、江戸時代に入ってから本格的に進みました。

逆にいえば中世までは、今の西陣に相当する範囲は都の北の果て。人ならざる存在たちの領域だったかもしれません。「異界」に向けた境界としての西陣ですね。

そこには死者、あるいは神仏が出入りするような、この世・あの世の境界線としてのイメージも生まれていきました。タモリさん・林田さんと今回歩いた船岡山の一帯がまさしくそんな性格です。

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『5万分の1地質図幅』に「平安京」と「西陣」の範囲をオーバレイ

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異界の「境界」としての西陣・船岡山

そして西陣が織物業で栄えた江戸時代。境界領域としての西陣イメージは、意外にも一層具体的となっていた模様です。

西陣から北部の郊外へとつながる千本通(鷹ヶ峰街道)沿いには、あの世の入口を担当する閻魔大王が鎮座する千本ゑんま堂十二坊と呼ばれる独特な宗教空間、そして火葬場が位置していたのです。機織りの音が鳴り止まぬ街には、死者を送る葬列が頻繁に見られたことでしょう。

このあたりがまさに、〈伝統〉や〈観光〉という視点からは見えない地域の実態でしょうか。西陣の空間座標はとても興味深いと思います。

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『都名所図会』1780(安永9)年が描く「西陣」北部の様子(原図を着色):「千本ゑんま堂」「十二坊」「船岡山」といった境界記号が居並んでいます。

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『改正京町絵図細見大成』1831(天保2)年から西陣を見る。船岡山の南麓一帯が市街地化しています。そこから突き出すように、「十二坊」が位置する。

「西陣」を歩きましょう!

番組で歩いた西陣をもう一度歩きましょう。

道ばたに佇むもの全てが、西陣の歴史を物語るはずです。西陣は京都にとってどんな地域だったのか。どんな歴史がそこには積み重なっていたのか。

番組をご覧になった人、西陣を丁寧に歩いてみたい人、そして京都を再発見したい人。

お待ちしています!

  1. 船岡山編:「異界」への境界領域としての西陣。京都北部のフロンティア開発史です。
  2. 西陣編:応仁・文明の乱の西軍本陣「西陣」を突き止めよう。中世から近世の激動期、京都北部はどんなまちづくりが進んだのか。

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たとえば西陣・船岡山を、こんな風に歩いてみようかと思います。

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今回も「まいまい京都」などで西陣ツアー開催です。

www.maimai-kyoto.jp

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