キティ川です。以前から京阪宇治線に乗車する度、気になっていた土手がありました。「カシミール3D」で作業していた所その土手が連続したものであり、また戦時中に敷設された鉄道の引込み線の為の築堤であることが分かりました。
この路線は明治39年に完成した宇治火薬製造所分工場への引込み線として、昭和15年に工事を開始し昭和16年に完成しました。当時の火薬需要増加による資材輸送に使用されていたそうです。宇治川沿いに火薬製造所が設置された理由は、元々火薬庫があった為や人口密集地から距離があること、何より水運を利用できることにあります。
昔、火薬製造所があった!
分工場内がどのような配置となっていたのか、昭和初期の地図ではありますが入手できたので参考までに記載します。舟入もあったようで、ここが現在も高低差として残されていないか調査中です。
木幡駅構内の跨線橋から六地蔵駅方面を望むと待避線を見ることが出来ますが、この待避線の辺りが昔は引込線との分岐点となっていたようです。
引き込み線跡を歩く!
今現在、引込み線跡は前半が緑道となっています。せっかくなので実際に現地を歩いてみましょう。歩く方向は南東から北西にかけて、引き込み線跡に沿ってカーブを描きながら歩きます。
また、許波多神社境内をはじめこの廃線跡に沿って歩くと、「陸軍用地」と彫られた境界標を20本以上も見ることが出来ます。
引き込み線跡の緑道をしばらく歩くと、かつての軌道が方向を西へ変えるタイミングで視界が開けて、築堤の高低差をより感じることができるポイントに出ます。
ちなみに戦時中、宇治火薬製造所へ電力を供給する為に昼間の5〜6時間は電気が止められていたそうで、京阪宇治線も運行をストップせざるを得なかったとのことです。また当時は蒸気機関車で貨物を運んでいた為に、築堤上を走るたび木幡の空を黒い煤煙で覆い隠したようです。
引き込み線の終発着点だった「宇治火薬製造所分工場」の付近には現在、パナソニックの工場がありますが、その工場の北側に出ると引き込み線跡の築堤遺構は無くなって平坦部を道路が走る状態となっていました。
引込み線はなぜ築堤だったのか?
なぜこのように高い築堤を造設したのか。この周辺地域の土地が低く山科川の氾濫等水害が多い為や途中の京阪宇治線と交差する地点がある為、引込み線のスタートとなっている木幡駅自体が元々土地の高い場所であった為にそれに合わせたのでないかと考えられます。
高低差を軸にblogを書きましたので廃線跡のみの記事となりましたが、この宇治火薬製造所については関係遺構がまだまだたくさん残されています。非常に面白い地域ですので、皆さんも古地図片手に散策してみてください。(北川)