京都高低差崖会

京都高低差崖会は京都の凸凹地形を探索しています。平地ではいられなかった、高低差が生まれてしまった、京都ならではの「まちの物語」「土地の記憶」を読み解いていきます!

続・近所の旧河道:上賀茂の小河川変遷

前回の続きです。自宅近所(上賀茂)の「菖蒲園川」について。詳細が分かってきたと同時に、菖蒲園川が流れる上賀茂全体についても自分のなかで理解が進んできました。


菖蒲園川の源流?

菖蒲園川は、明神川(上賀茂神社から社家町を流れる水路)から分流しています。これは文書が残る中世以降、近世を経て現代に至るまで変わっていません。そこで、この菖蒲園川と明神川の分流点を現地まで確認しに行きました。分流の地点は、上賀茂神社前のバスロータリーのすぐ東側にありました。

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● 写真:菖蒲園川と明神川の分流点。


● 地図:分流点の地点

分流点では、明神川に堰が設けられていて、増水時に菖蒲園川へと水流が向かうように作られていました。今は見たところ、明神川から菖蒲園川への分流は「必要最小限」というか、チョロチョロと菖蒲園川に水が向かうのみです。前回ご紹介した内容では、菖蒲園川は細い水路ながらも豊かな水量でしたから、明神川との分流点から先の中流以降で付近の生活水が菖蒲園川に流れ込んでいるのでしょうか。

明神川との分流点が菖蒲園川の「源流」とはいえ、限定的な分流のみとなっている状態は要注意です。ここに実は、上賀茂地域の大切な歴史が関わっているらしいのです。

中世から近世の間に「画期」があった

前回の内容で、菖蒲園川が「上賀茂村」と「下鴨村」の村境だったと延べました。これが実は、近世以降の村境だったことが分かってきました。つまり近世より前、中世の時期まで、菖蒲園川は「村境」ではなかったのです。

どういうことか。
ちょっと分かりにくいですね。

整理すると、近世になって「上賀茂神社の社領」(上賀茂社領)と「下鴨神社の社領」(下鴨社領)の再編が行われて、社領の境界が引き直されたということです。

中世まではというと、菖蒲園川を挟んだ南北両側の地域は、一括して全体が賀茂六郷のひとつである「中村郷」として「上賀茂社領」でした。それが近世以降、「中村郷」の菖蒲園川以南が分離されて、「下鴨社領」に編入されたと。結果、菖蒲園川が「上賀茂村」(上賀茂社領)と「下鴨村」(下鴨社領)を分ける境界に変化したのです。

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●図:中世の菖蒲園川と上賀茂地域(林倫・林孝・出村・川村2009*1より改変)

菖蒲園川の性格が変わった?

近世の上賀茂社領・下鴨社領の再編成によって、菖蒲園川の性格も変わりました。それまでは菖蒲園川は明神川と同様に上賀茂社領(とりわけ上賀茂社家町)を潤す重要な水路だったのですが、社領再編成によって菖蒲園川は社家町よりも下流の「下鴨社領」(下鴨村)への通水がメインとなったらしいのです。

結果、どうやら明神川から菖蒲園川への分流は近世以降、上賀茂村(社家町)にとって積極的な理由がなくなり、現代に見るような明神川→菖蒲園川への「消極的」な分流に繋がっているようです。

今はもちろん、「上賀茂社領」「下鴨社領」の区別はあまり重要ではありませんが(実際、北区と左京区の区境は、社領の境界を無視して引かれています)、このような歴史的経緯もあって今回最初にご紹介した菖蒲園川の源流(明神川との分流点)の姿になったのではと思いました。

鴨川改修でさらに変わった?

一方で近世を経て昭和初期まで、菖蒲園川は明神川からの分流のほかに、鴨川からも取水していました。「中村郷井手」と中世文書に記載された取水口です(先ほどの「図:中世の菖蒲園川と上賀茂地域」参照)。

「中村郷井手」によって、中世以降近世を通じて菖蒲園川は明神川とは別に鴨川からも取水されていたのです。では現代、この取水口はどうなっているのか。現地でこれも見てきました。

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● 写真:現代の「中村郷井手」(水流は菖蒲園川から鴨川に向かっています)


● 地図:現代の「中村郷井手」推定ポイント

中世文書に記載されたほぼ同じ地点に、今も「中村郷井手」らしきものが残っていました。ただし、今は「取水口」ではなく「排水口」でした!これは驚きました。中世・近世と現代で、水流の向きが180度全く変わっていたのです。

おそらくですが、昭和10年大水害後の鴨川の河床掘下げによって、「中村郷井手」の地点では従来は河床の高さが鴨川>菖蒲園川だったものが、菖蒲園川>鴨川と河床の高さが逆転してしまった結果ではないかと。

昭和初期の鴨川改修について京都府資料(当時の工事図面が掲載されています)

中世文書と同じ地点で「中村郷井手」らしき構造物が今もちゃんと残っていることもすごいですが、逆転してしまった水流の向きにはもっと驚きを感じた次第です。

菖蒲園川はとても細くて小さな水路ですが、色々調べてみると地域の深い歴史を背景とした経緯が作用しているようですね。とても面白いです。いま僕が住んでいる上賀茂という土地に、一層の興味と愛着が湧きました。

皆さんが住む土地にも川はありますか。
きっと面白い物語が潜んでいるのではないかと。

ではでは。
長々と失礼しました。
川大好き。(梅)

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