京都高低差崖会

京都高低差崖会は京都の凸凹地形を探索しています。平地ではいられなかった、高低差が生まれてしまった、京都ならではの「まちの物語」「土地の記憶」を読み解いていきます!

御土居の実像:目で見える巨大な「境界」

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@chang_umeです。先日の「ブラタモリ~京都~」のなかでタモリさんと御土居を歩きましたが、タモリさんとは出会い直後から同じ視点を感じてしまい二人で大はしゃぎとなりました(笑) とても良い思い出です。番組制作のみなさん、そしてなによりタモリさんに改めて心よりの感謝です。

ブラタモリの番組内でご紹介した御土居を改めてご紹介すると、豊臣秀吉が天下統一と同時に行った京都改造の一環で、京都のまちを一周する全長約23kmの市城壁(土塁+堀)です。

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●今に残る御土居の巨大遺構!(京都北区大宮土居町)

御土居がつくられた理由

実は御土居が築かれた理由については、築造当時からさまざまな見解が出されています。

悪徒出世之時はや鐘をつかせそれを相図に十門をたて、其内を被捲為と也。近衛信尹公日記』天正19年条

町の装飾となり美観を添えしめるために、その上に繁茂した樹木を植えさせた。ルイス・フロイス『日本史』

同時代史料には、「悪徒(悪人・罪人・盗賊・謀反人)を京都から逃さないようにするため」「京都の美観を整えるため」といった理由が挙げられていますが、どうもはっきりしません。またもちろん、御土居の東側は鴨川に沿っているため、水害から市街地を守る機能もあったことでしょう。

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●16世紀末ごろの京都

このように、理由についてはさまざまな言葉で説明されていますが、御土居の築造理由を京都以外の地域に広げて考えるとわかりやすいかもしれません。つまり、中近世の日本列島で主要なまちの大半は「都市城壁」で囲まれていたという事実です。

中世から近世を通じて、城下町はもちろん、寺内町や拠点的な集落など、日本列島の多くのまちが「城壁」(石垣・土塁・堀)で囲まれていていました*1。これを「惣構」(そうがまえ)と呼びますが、京都の御土居もそうした「惣構」の一例として、当時のまちづくりの「お約束」に則ったものとしてまずは捉えたいと思います。

御土居とは、巨大なグリーンベルトだった!

実のところ御土居は豊臣政権滅亡後も、江戸時代を通じて行政機関(江戸幕府京都町奉行所)によって大切に維持管理されていました

現代の資料で一部に「江戸時代からは御土居の破壊が進んだ」と記述するものもありますが*2、事実は反対で御土居はむしろ大切に扱われていたのです。御土居への侵入を防ぐ垣根、繁茂する植物、そして出入口など、番人を置いて管理されていました。

このことを何よりも雄弁に語る絵画資料があります。ブラタモリの番組内でもご紹介した、江戸時代末に描かれた「京都一覧図画」です。

京都一覧図画
●京都一覧図画(元治元年・1864)

京都一覧図画」は、江戸時代末の元治元年(1864)に浮世絵画家の五雲亭貞秀によって描かれた京都の鳥瞰図です。当時の京都のまちが上空からの視点で詳細に描かれている絵ですが、よく見るとまちの周囲にぐるりと一周している「グリーンベルト」が描きこまれています。

ところで御土居は、豊臣政権から江戸時代を通じて、「竹」が植えられて大切に保全されていました。御土居の竹は江戸時代に建築資材として大変珍重されたようで、民間から購入希望者も多くて「入札」が行われてもいました*3

そこで改めて「京都一覧図画」を見ると、まちを一周するグリーンベルトが「竹林」であることがよく分かります。つまりこのグリーンベルトこそ、絵画資料のなかに描かれた御土居なのです!

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●「京都一覧図画」:今の京都駅~東寺

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●「京都一覧図画」:島原~東西本願寺

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●「京都一覧図画」:御所~二条城

目で見える境界:御土居

これだけ巨大なグリーンベルトがまちの周囲を巡っていましたから、江戸時代の京都ではふと遠くを見ると緑色の御土居が目に入ったかもしれません。まさしく御土居とは、京都のまちの「内」と「外」を目で見える形で区別する「境界」だったのです。

ですから、現代の京都と江戸時代の京都は、まちの景色について御土居の有無でずいぶんと大きな違いがあったことでしょうね。近世の京都にとって、都市景観に巨大なメリハリを生んだ築造物が御土居だったのでしょう。私たちが連想する京都の伝統的な景観とはずいぶん異なりますね。

京都の他にも、日本列島の各地で江戸時代を通じて御土居のような「都市城壁」(惣構)が築かれていました。現代よりもずっと、まちの「内」「外」の区別に敏感だった時代といえそうです。

現代のまちは「フラット」にできています。私たちの住むまちには、どこにも「城壁」はありません。それは恐らく、住んでいる人々のあり方自体が「フラット」であることに価値が置かれているからでしょう。いっぽうで江戸時代は現代と違って「身分制社会」です。住民同士にも「区別」が置かれていました。したがって自ずから、まちのあり方にも「区別」が求められたのかもしれません。それが御土居の実像だと思います。目で見える境界、それが御土居の本質ではないかと。

御土居明治維新以降の近代に入ると、それ以前と一転して破壊が進行していきます。それはつまり、「区別」に価値が置かれた社会の変化と軌を一にするものでしょうか。まちの景色とは、社会の景色でもありますね。(梅)

*1:前川要 1997「中世環濠集落と惣構え―考古学から見た中世後期集落の類型と変遷」『日本史研究』420

*2:都市史18 聚楽第と御土居(京都市)など

*3:中村武生 2005『御土居堀ものがたり』京都新聞出版センター pp76-7

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